天津駐在員が送る中国エッセイ
***************語学の習得には、その国の歴史、思想、習慣などの知識が必要です。 中国は、私たち日本の隣国であり、世界の大国でもあります。これからいやでもうまくつきあっていく必要があります。一緒に中国の事を勉強しましょう。***************
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Author:shinoper
私たちには理解できない中国人の行動や考え方には、何かの理由があると思います。
それが、歴史の中にあるのか?
社会環境にあるのか?
お互いによい関係を気づくために、理解しあえるようなブログにできたら良いなと思います。



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映画「ラスト・コーション」 為虎作伥(Wei hu zuo chang)
ラスト・コーションに見られる易氏と王佳芝の関係を、「虎と伥」の関係と評論家達は言います。
虎と伥とは、下記の物語から来ております。

身を捨てて国のために尽くそうとした王佳芝も結局中国では、汪精衛と同じように売国奴扱いされてしまうようです。ここら辺の最終的な感情、判定が、今でも日本と中国では違うように感じます。

日本では、王佳芝は悪人にはなりえないと思います。
しかし、中国では悪人になってしまうんですね。


為虎作伥昔、ある地方の洞穴に、獰猛な虎が住んでいました。
ある日その虎は食べ物が無くなりお腹がすいたので、洞穴をでて付近の山に獲物を見つけに行きました。
丁度その時、山の中腹の遠くない所に、一人の人が歩いて来るのが見えました。
すぐに走っていって襲いかかりかみ殺して、その肉を食べてしまいました。

しかし、それでもお腹が一杯にならない虎は、その死んだ人の霊魂を捕まえて、もう一人捜して食わせるように脅します。
そうしないといつまでも自由にはさせないと。
その霊魂は仕方なしに同意します。
そうして、その霊魂は、虎の案内役になり、ついに二人目を見つけます。
その霊魂は自分が自由になるために、虎の手助けをします。
まず、その霊魂が人を迷わし、帯を解かせ、服を脱がせ、虎が食べるのに便宜を図ります。
その虎を助けた霊魂は、「伥鬼」と呼ばれます。


それ以後、
悪人を助けて非道徳な事をすることを「為虎作伥」というようになりました。






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映画「ラスト・コーション」 鄭苹如
映画の易氏が、丁黙村で有ることは、先に書きましたが、
= 王佳芝は、鄭苹如です。 =
鄭苹如

鄭苹如は浙江蘭渓の人で、1918年生まれ。父は、鄭鉞、別名英伯。彼は、若いころに日本の法政大学に留学、孫中山と革命に奔走。同盟会に加入し国民党の元老でありました。

彼は東京で日本旧名家の娘木村花子と知り合います。花子は中国革命に非常に同情し、結婚後花子は夫と中国で暮らし、名を鄭華君と改名。彼らは二男三女をもうけ、鄭苹如は次女。彼女は幼い頃から聡明で、人の気持ちをよく察し、母親から流暢な日本語を学んでいました。

鄭英伯は帰国後上海復旦大学教授を務め、また江蘇高院第二分院の首席検察官をつとめたこともあります。鄭苹如は明光中学に行っておりましたが、その時の中学の校長が丁黙村でありました。

抗戦が始まってから、鄭苹如は抗日救国運動に参加。上海陥落後、彼女自身の卓越した条件(社会的人間関係と日本語能力)によって、抗日の地下工作を行います。中統に加入当時わずか19歳。

鄭苹如はきわめて優秀な諜報員で、彼女は母親の人間関係を利用し、日本側の高級幹部の内、日本首相近衛文磨が上海に派遣した早水親重と関係をつけ、早水の紹介で近衛文磨の息子近衛文隆、近衛忠磨、および華中派遣軍副参謀総長今井武夫などと知り合いになります。


= 丁黙村暗殺 =

汪精衛政権は、当時上海の極司菲爾路(現在の万航渡路)76号に、スパイ工作本部を設立。主任丁黙村は原軍統(国民党特務組織)第三所所長、売国奴の李士群と日本側に寝返って、抗日を邪魔しておりました。

中統上海潜行組織の責任者、陳果夫の甥にあたる陳宝華(馬編)は、彼の弱点である好色をついて、「美人計」を考え、彼の抹殺を決定します。中統は、時機が来たのを見て暗殺にかかります。

初回、鄭苹如は丁黙村を彼女の家に招待。鄭家付近に狙撃者を張り込ませます。彼の乗用車がもうすぐ鄭家に着く時、彼は考えを変え、帰ってしまいます。

第2回、1939年12月21日丁黙村は滬西の友達のところで、昼食をとっておりました。彼は鄭苹如に電話して誘い出し夕方まで一緒に過ごします。丁は虹口へ行かなければいけないと言い、鄭は南京道に行かなければならないといいます。一緒に車に乗り、静安道、戈登路(現在の江寧路)のシベリア皮革製品店まで来ると、鄭苹如が急に毛皮の外套が買いたいと言い出します。彼も彼女と一緒に車を降り、一緒に外套を選びます。しかし、その時彼は気づきます。ガラスの窓の外に、2人の不審な男がこちらをじろじろ見ているのに。丁は情勢が怪しいことに気づくと、オーバーコートのポケットから札束を取りだし、ガラスケースの上に置き「自分で選んで。俺は先に帰る。」と言い残し、外に駆け出します。

店の外を徘徊していた中統特務は、丁黙村が、外套も選ばずに飛び出して来るとは思いもせず、一瞬躊躇します。丁の運転手は、彼が狂走して来るのを見つけ、エンジンをかけ、ドアを開けます。銃声が鳴った時には、彼はすでに車内の中に入り込んでいました。銃弾は、防弾車に撃ち込まれますが、彼には全く傷は有りませんでした。

彼女は、自分一人で彼を暗殺する事を考えます。拳銃を隠し持ち。しかし、丁もすでに彼女を捕らえる網を張っておりました。翌々日、鄭苹如は、車で76号行き、丁黙村を尋ねます。しかし、そこですぐに丁の側近林之江に拘留されます。李士群の妻、叶吉卿はすぐにそのことを知り、沈耕梅を行かせて尋問させます。丁黙村は、阻止することができません。鄭苹如は彼女と中統の関係を否認。しかし、丁を殺そうとしたことは、彼にもてあそばれたからだと認めます。丁黙村は鄭苹如が、自分の暗殺に関係したことを恨みます。しかし、彼女の美しさに未練があり、彼は彼女を死地送ることはできませんでした。

しかし、丁黙村の妻、趙慧敏は密かに林之江を捜し出します。そうして、鄭苹如は、秘密裏に憶定盤路三十七号の「平和救国軍」第4路司令部内に移されます。このことは、丁黙村も李士群も知りませんでした。1940年2月ある月の光の無い晩、林之江は、囚人室から丁黙村が呼んでいると鄭苹如を連れだし、車で歪んだ道を通り、滬西中山路の空き地に着きます。

鄭苹如は、3発の銃弾に倒れます。当時わずか23歳。







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映画「ラスト・コーション」 張愛玲
張愛玲の小説は、他にも映画化、ドラマ化されているものがいろいろと有ります。
是非、この機会にご覧になってはいかがでしょうか。

= 映画 =

傾城之恋

傾城之恋 (1984) 出演:周潤発 あまり評判が良くない



滾滾紅塵

滾滾紅塵 (1990) 出演:林青霞/秦漢/張曼玉/顧美華/呉耀漢/厳浩


紅mei瑰与白mei瑰

紅mei瑰与白mei瑰 (1994) 出演:趙文宣(王編)/叶玉卿/陳冲 第31届台湾金馬奨最佳編劇、最佳女主角等5受賞作品



半生縁

半生縁 (1997) 出演:葛優/黎明/梅艶芳/黄磊/王志文



海上花

海上花 (1998) 出演:高捷/劉嘉玲/潘迪華/梁朝偉/李嘉欣/羽田美智子


色・戒

色・戒 (2007) 出演:梁朝偉/湯唯/王力宏/何賽飛/陳冲/度宗華 ベネチア映画祭金獅子賞受賞



= テレビドラマ =

半生縁   2003

金鎖記   2004

傾城之恋  撮影中

= 張愛玲 語録 =

<愛>
于千萬人之中遇見ni所要遇見的人、于千万年之中、時間的無涯的荒野里、没有早一歩、也没有晩一歩、剛巧gan上了、没有別的話可説、唯有軽軽地問一声:「O, ni也在這里」

<半生縁>
我們再也會不去了

<紅mei瑰与白mei瑰 >
也許毎一個男子全都有過這樣的兩個女人,至少兩個。娶了紅mei瑰,久而久之,紅的變了墻上的一抹蚊子血、白的還是窗前明月光、娶了白mei瑰、白的便是衣服上的一粒飯黏子、紅的卻是心口上的一顆朱砂 

<留情>
生于這世上、没有一様感情不是千瘡百孔的

<傾城之恋>
我死了、ni的故事還長着ne、ni死了、我就什莫没有了。







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汪精衛(Wang jingwei) Part 13-2 短命南京政府 「ラスト・コーション」の背景
時間があれば、この記事の頭からどうぞ!
ラスト・コーションを見られる方は、1つ前の記事から読んでいただければ、当時の背景がよく分かります。


1940年4月日ソ中立条約締結
1941年10月東条内閣成立


1941年12月8日、日本軍は、パールハーバーを攻撃、太平洋戦争が爆発します。多くの人にとって、日本のアメリカに対する開戦は、狂気に写ります。日本は歴史上ずっと人口過剰な状態で、外国への移民は人口問題を解決する良い方法でした。アメリカは、一番裕福な移民先で、19世紀末アメリカ移民が高まります。大量の日本人がつぎつぎとアメリカへ移住。しかし、日本移民は、アメリカでひどい人種差別と迫害を受けます。当時アメリカでは、多くの州が有色人種の土地所有を禁止しており、アメリカ生まれの日系2世3世は、アメリカ国民としては認められておりましたが、土地の所有は禁止され、低い職業にしか従事できませんでした。

当時中国移民もアメリカで同様に激しい人種差別、迫害を受けておりましたが、中国政府は全く気にしておりません。日本政府は、日本アメリカに抗議します。それに対し、アメリカは「排日移民法案」を作成、1924年憲法修正案が制定され、事実上完全に日本移民を禁止しました。当時アメリカはヨーロッパの白人移民には、まったく規制をしていないにも関わらずです。

1924年から1945年の日本敗戦まで、1人として日本人移民はアメリカに認可されておりません。明らかに日本人およびアジア有色人種に対する蔑視です。当時アメリカの「排日移民法案」は日本で、大きな怒りを買っており、反米感情は高まっておりました。親米派は窮地に陥り、日本が熱狂的ナショナリズムの道を歩むことを成ったのです。日本が真珠港攻撃をする一因でもあります。

また、日本がアメリカとの戦争を起こす直接の原因は、アメリカが石油を禁輸したことです。当時日本は、90%以上の石油をアメリカに依存しておりました。飛行機、軍艦、戦車による近代戦争において、アメリカが日本への石油供給を絶つだけで、日本は戦うことが不可能になったのです。

近年の資料を見ると、アメリカの美孚石油会社は、1920年代に中国の大慶油田を発見しておりました。しかし、アメリカはその事を公表せず、中国に石油はないと言っておりました。さらに、「中国貧石論」などを出し、中国石油に死刑を宣告していたのです。当時日本も中国北東部で石油を探しておりましたが、アメリカ人が探査した所は、探査しておりません。彼らは、アメリカを信じ、本当に石油はないと思いこんだのです。まさかアメリカに騙されているとも気づかずに。日本が中国で石油を発見していたら、アメリカの石油禁輸に対して真珠湾を攻撃することも無かったかもしれません。

太平洋戦争爆発後、汪精衛は中国を代表して英美に宣戦布告すると共に、南京政府も太平洋の前線に派兵し、日本軍と共に戦う事を提案します。汪精衛のこの提案は、南京政府自身で強大な軍隊を作るための口実でした。しかし、日本は彼の参戦に同意しません。日本は南京政府に懐疑的でした。強大な軍隊を作った後、彼らが、銃口を自分たちに向けるのではないかと。


1942年1月マニラ陥落
1942年2月シンガポール陥落
1942年6月7日ミッドウェー海戦


1942年以後、日本は太平洋戦線に主要兵力を投入、中国戦場はもぬけの殻となっておりました。南京政府にも日本の窮地が見てとれ、しだいに強硬な態度をとって、日本に主権を返還することを要求、政府力を拡大します。

1942年9月22日汪精衛は南京の日本特使を訪問、前平沼騏一郎に南京政府強化を進言します。汪精衛は、その中で日本に南京政府の財務と行政に干渉しないように要求します。

1943年1月9日南京政府と日本は《租界返還と治外法権の撤廃》に調印して、英法租界と日租界が中国に還ります。

1943年2月2日汪精衛は主席令を出して、国旗の「平和、反共、建国」も文字が入った黄色い
三角巾をはずさせます。

1943年10月30日南京政府と日本は《華日同盟条約》を再調印し、1940年に結んだ《華日基本条約》中の主権喪失部分を大幅に改善しました。

汪精衛は太平洋戦争を利用して大いに南京政府の地位を改善しましたが、日本が負ければ、彼の努力も泡と消え去るのです。

1943年以後、日本敗戦の色が濃くなると、南京政府の役人は自分たちの行き先を心配し、周佛海などの多くの高官はひそかに重慶方面と連絡を取り初めておりました。蒋介石の重慶政府と毛沢東の中共も同様に汪精衛政府に注目しておりました。俗に「両湖熟、天下足」と言いますが、汪精衛南京政府は中国の最も人口が多くて物産の豊かな地帯及び上海という国際都市を占拠していたのです。日本敗戦後、南京政府は重慶と延安のどちらかに、吸収されるしかなく、吸収した方が力をつけることになります。蒋介石は周佛海などの以前の部下に近づき、毛沢東は同様に汪精衛に接近しようとしておりました。

1943年8月汪精衛は、1935年暗殺されかかった時に背中の銃弾を取り除けて折らず、そのキズが悪化し出しました。11月21日日本政は、内科の黒川利雄教授を南京に派遣検査します。汪精衛は銃弾の摘出を希望しますが、黒川はこのままの方が良いと診断します。黒川が去った後、その痛みは日に日にひどくなります。

南京日本陸軍病院院長の后藤が治療に当たり、銃弾が神経を圧迫していると診断、銃弾の摘出を勧めます。12月19日後藤は自ら執刀し、銃弾を取り出します。術後、病状は急激に悪化、体温が上昇し、下半身が麻痺します。1944年の元旦以後、汪精衛はベッドに座る事すら出来なくなります。

1944年2月日本政府は、再び黒川を派遣。彼は、骨髄が腫れており、治療法がないと診断。死亡率は90%であるので、日本に行って先進的な設備のある所での治療を勧めます。

3月1日名古屋帝国大学日本神経外科医学権威斎藤真は、首相東条英機の命を授け南京で診断。黒川の診断と同じ見解を示し、日本での治療の必要性を説きます。

1944年3月3日汪精衛は、陳壁君と子供達と一緒に、専用機で日本への治療に旅立ちます。

3月4日名古屋帝国大学付属病院は黒川利雄、斎藤真などの8人でチームを編成、汪精衛を再診します。診断後、齋藤が自ら執刀し、手術を行います。術後、大分よくなり、2ヶ月麻痺していた両足も感覚が戻りました。しかし、1944年9月汪精衛の病状は再び悪化。1944年10月汪精衛は、危篤に陥ります。

11月8日米軍の大規模な名古屋空襲が始まり、汪精衛は地下室に移されます。地下室は、暖房設備が無いため大変寒く、汪精衛は肺炎を併発。翌日40度の熱が出て、呼吸困難になります。11月10日午後、病室にいた汪夫人陳壁君が大声で叫びます。汪精衛は最後に「私は中国へ帰らなければいけない」と言い残して、この世を去ります。

=== 1944年11月10日午後4時20分、汪精衛呼吸停止。 ===

翌日、日本の首相小磯、前首相東条英機、前首相近衛文呂などが駆けつけ汪精衛と告別します。汪精衛の遺体は、11月12日に専用機で、小磯首相、親衛などの見送りを受けて中国に運ばれました。汪精衛は、生前梅の花を大変好み南京市の花を梅に定めました。汪精衛は名古屋大学での療養中、名古屋大学に紅梅の苗木を贈っており、その2株は今でも病棟の前にあります。汪精衛は南京郊外の梅花山に埋められます。

==== 蒋介石が後に墓を爆破し、遺体を焼却するまでは。 ====

つづく






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汪精衛(Wang jingwei) Part 13-1 短命南京政府 「ラスト・コーション」の背景
時間があれば、 この記事の頭からどうぞ!

この投稿は、「ラスト・コーション」(中国名 色・戒)を見られる方の為の予備知識として投稿しております。これまで、林思雲さんんの「真実の汪精衛」を訳しながら要点を投稿して来ましたが、長い文章である為に、まだ半分くらいしか投稿できておりません。来年の正月に「ラスト・コーション」が上映されるにあたり、その当時の部分を先に投稿いたしました。参考にしていただければ、幸いです。


1936年2月26日2・26事件
1937年7月7日廬溝橋事件。これからの1年、日中双方で300万人が戦い、100万人が戦死。
1500万の中国人が難民化し、世界最貧国の日中が70億ドルを灰にします。
1937年8月13日中国保安隊が、日本の海軍士官と水兵を殺害。3ヶ月に渡る日本海軍と蒋介石との戦闘に発展。
1937年11月日本軍上海を占領。
11月5日杭州より上陸し、南京まで到達。
その間にも山西省に侵入した機械化師団が太源を占領。内蒙古を急進撃。
12月山東省に侵入、4ヶ月に渡り戦闘、翌年4月7日敗北。翌月再度戦い徐州を占領。
徐州から西に進むが黄河の堤防を爆破され、南に進路をかえ、蒋介石の臨時首都である漢口へ進撃。
1937年12月7日蒋介石飛行機で南京より脱出。
1938年10月広東陥落
1939年5月ノモンハン事件


失敗すれば、家族全体が末代までも批判される

今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか。

汪兆銘(汪精衛)は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。時に1937(昭和12)年。汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。

結果はこの言葉の後半そのままとなった。妻は獄死、子どもたちは海外にちりぢりとなった。汪兆銘本人は「漢奸」(中国の売国奴)と今でも非難されている。そしてなによりも、彼が幸せを願った中国の国民には、さらなる戦乱と、共産党独裁政権のもとでの圧制という過酷な運命が待っていた。


1939年8月、日本平沼内閣は失脚、8月31日阿部信行陸軍大将の新内の閣が成立します。阿部首相は翌日に声明を出します。「中国事変は、日本外交政策の核心である。分割統治の方針に切り替え、汪精衛の中央政府を支持、迅速に中国事変を処理する。」

1939年9月15日日本参謀本部は《中央政府建設をして事変を処理する最高方針》を起案。
「中央政府の建設を進め、重慶の停戦を促し、重慶の兵力と財力を吸収する」とします。

阿部首相の新しい方針は汪精衛が中央政府を建設する計画を可能にしました。

汪精衛は、「中日関係の根本的理念と目標」と題する放送で次のように語りかけます。中日間は「結怨不如解怨」である。現在中国は、2本の分かれ道にさしかかっている。一方は、蒋介石先生などが大法螺を吹いて続けようとしている抗日戦争。しかし、私は重慶が勝利を収めれる程の軍事力を持っているとは思えない。抗戦を続けても、共産党を利するばかりである。もう一方の道は、孫中山先生の遺志、敵を友とし、恨みを解く努力をする。前者は中国亡国の道であり、後者は中国の復興の道である。また、アジア復興の道でもある。私は後者の道を行くことを決めました。全国の各党派及び無党派の有志が私に続いてくれる事を望みます。

1939年10月1日、汪精衛は、日本の《中央公論》に《寄語日本》という文章を発表し、中国侵略に熱を上げる軍国主義者に警告を試みます。汪精衛はその文章で「侵略主義と共産主義を私たちは恐れています。中国人は、日本が現在共産主義を排除しようとしているのを知っております。しかし、日本が侵略主義を排撃しているとは思えない。中国人から見ると、日本も侵略主義者であります。そのうえ中国に対する侵略は、はなはだひどく、「東アジア共同体」「東アジアの新秩序」は中国を滅ぼす代名詞に思えます。もし真に日本が中国を滅ぼす事を企んだでいるのであれば、中国は共産主義勢力と連合して日本に対抗するしかない。「無鳩止渇」(毒酒を飲んで乾きをいやす)「以暴易暴」に違いなく、そして「暴中之暴」でありますが、仕方がないことです。

1939年10月日本興亜院は、《日華新関係調整要綱》を起草し、汪精衛と中央政府がの基本的条件について交渉します。興亜院は1938年7月成に立した中国問題を専門に処理する部門です。興亜院が提出した《日華新関係調整要綱》には、《調整原則》《調整要網》《調整要綱附件》が含まれ、前首相近衛文呂が昨年宣布した「善隣友好、共同防共、経済提携」の三原則は大きく退いておりました。《要綱》では、中国を北東、内蒙、華北、華中、華南の5つの地域、階層に分け、

第一階層は、満州国。第二階層は、蒙彊自治政府 (1939年9月日本の画策下、蒙古の徳王と張家口で成立した蒙彊聯合自治政府)第三層は華北、第4層は華中、第5層は華南。《要綱》は、この5つの層別々に政策が図られました。

北東に対しては、満州帝国の承認、中国からの完全独立。
蒙彊地区は、「軍事及び政治上の特別地位の設定」の同意、中国の名目主権下での自治。
華北地区は、「日満華高度結合地帯」とし、防共駐兵」。
華中と華南地区は、平和回復後、日本の軍は撤退し、日本軍艦を揚子江沿岸の特定地点と華南の特定島に寄港、駐屯させる。

1939年11月1日、初回汪方代表と日方代表の秘密交渉が行われます。
汪方は、近衛声明、上海重光堂協議、東京談判の3件の書類を基礎する事を要求します。
日方側の態度は強硬で、《要綱》の方針を堅持します。

汪精衛は、失望の内に上海に戻り、平和活動の停止を発表します。
そんな行き詰まった情況の中、影佐が汪精衛に自分が再度日本側と交渉するので、あきらめずに待ってい欲しいと告げます。

影佐は東京に戻ると、陸軍大臣などに報告し、汪精衛の立場を説明、日本側にも適当な譲歩を求めます。11月下旬影佐は再び上海に戻りますが、汪精衛を満足させることはできませんでした。12月再度交渉が再開され、日本側は、協議書に《極秘了解事項》を添え汪精衛の要求を加える事に同意します。

汪精衛は最後に恥を忍んで日本側の条件で中央政府を成立することを決定します。以前国民党副総裁の身分と比べて、汪精衛の社会的地位はなく、交渉に使えるカードは何もありませんでした。

1939年12月30日、周仏海は中国側の代表として協議書にサインし、こう言います。
「弱国には、外交さえない。我々は、暫時主権を失うけれども、新権建設が始まって、平和になれば、国勢も盛になり、その時に再び日本と再度交渉して遅くはない。」

こうして、1940年3月20日新政府の南京成立が宣布されました。


1940年1月26日日米通商条約失効
1940年9月27日日独伊三国同盟締結


汪精衛の中央政権が成立して半年後、《華日基本条約》が調印されました。
1940年11月30日南京にて《華日基本条約》の調印式が行われ、汪精衛が行政院長の身分で調印しました。

汪精衛は、礼装しホールの石段の前で、日本側の特使阿部信行が到着するのを待っておりました。その時、突然涙があふれ出し、両頬をつたって涙が流れ落ちます。両手で自分の毛をつかみ、激しく引き抜きながら、「畜生!畜生!」と声を上げました。丁度その時、楽団の音楽がなりだし、彼の通訳である周隆庠が「阿部大使がお見えになりました。」と注意を促すと、汪精衛は夢から覚めたように、容姿を整え、微笑みを浮かべて、阿部特使を出迎えたのです。


つづく





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