以前投稿した林思雲さんの文章 に下記のような話があります。中国は、1980年にアメリカ向けの1ドルシャツの輸出を始めました。しかし、今でも1ドルのシャツを売っています。なおかつ、まだこの状況が続きそうです。中国人は、いつも現状に安んじて、1ドルのシャツが売れ続ければ、いつまで経っても同じ事をしています。製品革新精神の積極性欠乏です。中国は、数百のカラーテレビ生産ラインを導入しました。生産ラインを導入した全ての工場は、永久に生産しよう考え、改良や革新は、行わないと思います。カラーテレビ等の家電製品は、製品の入れ替えが激しく、1種の型番製品の寿命は、たったの1年から2年と言われ、それ故に、中国家電企業の平均寿命もたった2年くらいしかありません。中国企業の寿命は、往々にして、その生産する製品の寿命と同じなのです。 } 史記の最後の章「大史公自序」に孔子の我欲載之空言,不如見之于行事之深切著明也。 「抽象的な言葉で説明しようとしても、事実のように明晰には表現できない」 という言葉があるそうです。 ここには、現実しか書いておりませんよという司馬遷の宣言です。 また、論語に下記のような話があります。 子路「神様に仕えるには、どうしたらいいのでしょう。」 孔子「いまだ人につかうる能わず、いずくんぞ鬼につかえん。」 子路「あえて、死を問う。」 孔子「いまだ生をしらず、いずくんぞ死を知らん。」 子路は、全く相手にしてもらえなかったようで、少しかわいそうな気がします。 孔子は、超現実主義者で、目の前の問題を考えることだけに集中し、 哲学的な問題や抽象的な思考を排除してしまったようです。 中国では、史実を重視するあまり、小説のようなフィクションの発達がおくれ、 戯曲らしい戯曲が現れるのは、13世紀、元の時代。 小説がはっきりした存在となるのは、明の時代だそうです。歴史は、What had happened. 起こったことを書くわけです。 戯曲は、What would happen. 起こるであろう事を書くのです。 歴史を書くためには、事実さえはっきりすれば書ける訳ですので、単純な作業になります。 良い文章にするために、いろいろな技術は必要でありましょうが、抽象的なものを組み立てて考える必要はありません。西洋では、早くから戯曲や小説が発達しておりました。なにが起こるかを書くためには、人間の本質のようなものを、日々の事柄から拾い集めて、抽象化し、組み立てていく必要があります。 ここに、中国の特殊性があります。 中国人は、何が起こるかを考えずに、起こった事に対してのみ、これまでの歴史(経験)に照らし合わせて物事を判断しているのではないかと思えるのです。 中国人は、この先どうなるのか、だからどうしなくては、いけないのか、とは考えていないようです。また、起こったことにのみ対応するので、その場その場の対応となり、その思考や行動には、一貫性がなくなります。これが、私たちが、中国人を理解できない大きな原因の一つではないでしょうか。 FC2 Blog Ranking
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